昭和53年05月16日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心から も練り出すがよい。」
「信心は拝むだけが能ではない。話をよく聞くがよい。」と言う事も言える、と思うですよね。話をよく聞く。そこから私は練り出す、と言う事になってくると思うです。ただ何もない。一つの問題を提起される。その問題を練る。問題なしにただ腕こまねいて「信心とは、信心とは」と、練ったところで練りようがない。その日々の自分のもつ起こって来る事柄、言うならその問題を通して、どう頂くことが本当なのか、どう頂くことが本当か、というふうに練り出すきっかけというものが頂ける。
練り出すきっかけというものは、だからどう言う事かと言うと、その一番根本になるものはね、始終いつも自分が思っておること、どう言う事を練るに致しましてもね、私が今日あると言う事。まあ私共であるなら、こうやって朝の三時から起きて四時の御祈念を頂こうという人は、一生懸命参って来る。五時の御祈念を頂こうという人は、もうやっぱり四時過ぎには起きて参って来る。
参って来ると、例えば言うてもただ参って来るというのじゃない。「成程神様から参らせて頂いているんだな」。この実感がなからなければ、お参りは左程値打ちのない思いになってしまうんです。それが根本である。昨日研修の時に、坂根先生がこんな発表をしてました。今毎朝親先生が三時半に出て来られる。それを皆さんと一緒に拝ませて貰う、迎えさせて貰う。
それで三時半にはちゃんと起きれるように、目覚まし時計をかけておりますけれども、そのことを願うようになりましてこの方というものは、もう全然時計が三時半に鳴る前に、必ず目覚ましのおかげを頂くと言うね。そこにですね。目覚ましのおかげを頂く。神様が起こして下さる。それが根本なんです。それから一日の信心が始まる。神様が目覚ましのおかげを下さるね。
ま、ここにそれでも大事なことはと言うて、まあお話したことでしたけれども。確かに、皆が一心発起というか、そういう心が昨日の御理解から言うと、生き生きとした瑞々しい言うならば、元気な心と言う事になるのでしょう。神様に一心発起して、明日の朝から三時半のお出ましを頂かせて貰うと心に決めたら、もちろん願ったそのことが神様の心にかなうことであったから、神様は早速聞いて下さる。
目覚まし時計を掛けさせて頂いておるけれども、まあそういう願いを立ててこの方、おかげで未だ一遍も時計のベルで、もう鳴る前に必ず目覚ましのおかげを頂く。ですから目覚ましも爽やかだし「成程神様からお許しを頂かなければ出来る事ではないな。」とこれが根本。坂根先生の信心の根本は、そこから始まってくるね。それでもなおかつ、お互いが心掛けなければならん事はです。そういう信心が一ヶ月続いた二ヶ月続いた。
けれども段々日にちが経つに従って、今度はベルが鳴っても目が覚めんと言う事になってくるんです。してみると、あの時分は自分が張り切っとったから目が覚めたっちゃろうと言う様な事になってくる。けれども考えれば考えてみる程、三時半前に必ず目が覚めると言う事は張り切っただけではない。張り切っただけならば、二時に目が覚めたり一時に目が覚めたりするだろうけれども、ちゃんと三時半のベルの鳴る前に起こして頂くと言う事が、神様がこちらの生き生きとした願い。
しかもその願いは神様の通う程しの願いであるから、聞いて下さる。「有り難いな今日も起こして頂いた。目覚ましのおかげを頂いた。」ところから、坂根先生の信心が、言うなら始まるわけです。それがそれが言うならばいつも根本なんです。ところがそういう信心が段々出来てきておるとです、心が人間ですから、やっぱり張り弓のように張り切ってばかりはおられません。たしかに昨夜もお願いしてやすませて頂いたのに、目が覚めなかった。はあベルがジャンジャン鳴って目が覚めた。
だからどうも目覚めがスッキリとしない。「あの時分なやっぱ、張り切っとったけんじゃろう。」と言うところに、信心を進めて行く一つの落とし穴のようなものがある。だからその落とし穴に入らんようにね。また新たなこの頃自分の信心が抜けて来た。だから働きを的確に頂き現すことが出来なくなったと、言う様にそこを繰り返し繰り返し、言うならおかげを頂いておるうちにです。もう朝三時半に目覚ましのおかげを頂くと言う事が、身に血に肉になってしまうわけです。
そこのところが、信心は大事なんです。始めの間はおかげを頂きよったけれども、段々頂かんごつなった。「あん時はふの良かったっちゃろうか」と言う様な事になって来る。そこから、信心はそこで終わってしまう。だからそういう時をです。私は練り出すと言うのだと思う。あんなに打てば響くようなおかげを頂いておった。もうそれこそ打てば響く様に、神様は三時半前にキチッと、ベルが鳴る前に起こして下さっておった。
のにもかかわらず、今日は目が覚めなかったり、ベルが鳴っても覚えんと言った様なことは、どうしたことであろうかと練ってみなければならないね。そして結局自分の生き生きとした心が欠けておったということに気付かせて貰うて、又新たな一段と信心修行を心に練り出させて頂いて、叩いてみるなり焼いてみるなりしてね。生き生きとした水を吸い上げさせて頂く草花のように工夫してみなければならない。
そこから又、生き生きとした水を吸い上げて、しおれかかった花が又シャンとするようなものなんだ。そういう繰り返しをしておるうちに、三時半に目覚ますと言う事は、もうさほどに時計の方のそれを借らなくてもよい。自ずと自分の身についてしまう。そこまでが、私は大事だと思う。その間のところを、一つ本気で練り出さなければいけないと言う事ね。根本になるもの。今日私が目覚ましのおかげを頂いたと言う事。今日私がここにあると言う事。言うならしかも健康であると言う事ね。
富永先生が、もうそれこそあらゆる病気を持って、もう今まで生きておられるのが不思議だと言う様な状態の中に、合楽に御縁を頂いて、だんだんおかげを頂いて、「もうそれこそ健康のことだけには、自信が出来ました。身体はもう82キロもあってしかも脂肪太りではなくて、もう肉ばっかり。もう先生この体だけには自信がつきました」と。だから「その自信が危ないばい。」と私がね。本当に神様のおかげを頂かなければ、今日私は無いんだと、いう。
今日もおかげを頂いておる、健康のうえにもおかげを頂いておるという思いから、手が動いておることも、目が見えていることも、日々御用が出来ることも、有り難いという、これが四十一節なんです。これが一番でなければならん。そん時はさほどに思わなかったけれども、その一月後には又病気がね、もう死ぬるか生きるかと言う所になって初めて、改めてお生かしのおかげを頂いておる、と言う事が口では言うておっても、心からもう健康には自信が出来たと言った様な考え方が、神様の心に適わん。
今日お生かしのおかげを頂いておると言う事がですね。今までおかげと思っていなかったことが、本当におかげと思えて、それが言うなら練り出す根本にならねばならないと言う事なんです。そこから練り出さなければですね、それを反対の方へ、り出してしまう。おかげの受けられない方へ、練り出すような結果が生まれてくる。「ああこりゃもう、神様が朝参りはせんでええち言いござるとばいなあ」。目が覚めんと。
もう自分の信心もだいぶ向上したからね、「朝の三時半てんなんてん起きらんで良か」ち、神様が言いよんなさるとじゃろうというふうな、言うならば自分を楽な方へ練り出してしまうと言う様な結果になってくる。昨日は富久信会で、昨日の富久信会は、丁度先月の続きのところを読ませて頂いたら、もう昨日の朝の御理解をスッポリそのまま頂いたが、もうその読ませて頂いた、その合楽理念の、あのパンフレットの中には出ていない、出ていない言うなら、所を研修させて頂くことが出来た。
その中で例えば、本気で心行に取り組む。もう家業の行に取組む以外にない。今の合楽は家業そのもの。目覚ましのおかげ頂いて有り難い。御祈念させて頂いて有り難い。その有り難いという心で、「神様今日もどうぞ御用にお使い回しを下さい」。きついことがあっても、これはもう信心修行とさせて貰う。という願いのもとに、一日が生き生きとした、食べるために働くと言った様なものではなくてね。言うなら一日を修行にお使い回し頂くことが出来る。そういう修行というその心がです。
言うなら実意の限りを仕事の上に現すことも又出来る。修行じゃからいい加減なことは出来ん。「はあ今まではこう言う所から、おかげが漏れよったな」と言う様に、実意丁寧な家業の行が出来るようになる。もう絶対、日勝り月勝り年勝りのおかげが頂かれる。心行として家業の行に取り組んでおかげを頂いてね。勿論教聴、日参と言った様な信心が続く限り、もう絶対、日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられる。ところがね、この辺までおかげを頂いた人は沢山あるけれども。
その辺からちょっと信心が、言うなら本当の練り出しをしないから、楽な方へなってくるです。おかげで金にも不自由せんごとなった。家庭もおかげで、まあ円満に行く様になった。おかげでもう本当にここ何年間、薬一服飲まんで良い。昨日一昨日でしたか。稲垣さんが、昨日一昨日が、朝晩お参りさして頂くようになってから丸三年になります。改めて有り難いと思わせて頂くことは、家庭の上にもおかげを頂いて来ておると言う事も、勿論ですけれども。
これは御主人もあのう、たまがっておりますことですけれども、ここ三年間薬一服家庭中の者が頂いていないと言う事に改めて気が付いた。親先生が仰る言うなら貧争病の無い、言うなら世界に段々住んでおる事実を、しかもその上日々をそれこそリズムに乗りに乗り切って、生活が嬉しう楽しう出来ると言う事は有り難い。ですからそういう言うならば信心をさして頂いておる内に、薬も要らんようになる、家庭も円満になるというおかげを頂いた、その辺の所からが、又新たな練り出しがなされんとやり損なう。
もうこれだけのおかげを頂いたから、もうそげんヤイヤイ言うてから朝参りせんでん良かと、言う様な楽な方へ走る事になりますとです、次の一番肝心要のです。いわゆるいよいよ貧争病の無いお徳。言うなら家繁盛・子孫繁盛のおかげの頂けれる、いわゆる真善美に輝くばかりのおかげの世界というものに到達せんなりで、ただ金に不自由せんから、健康だからで終わってしまう。そして子供の代には又信心が新たになってくる。又は信心が無くなると言った様な結果があると言う事です。
私は昨夜そのことを話したことでした。だから本当に言うなら貧争病のない程しのおかげを、心行家業の行によって頂いた。頂いたそこからです。信心の真をいよいよ現すと言う事の信心がなされなければ、代勝りのおかげにはならない。不思議に現されんごつなるです。不思議に信心に生き生きとしたものを欠く事になるのです。この辺のところが大事ですから、そういう一つの信心が成就する、おかげが叶たと、そこで私は練らなければいけないと思う。 そこの根本になるものはです。
今日も目覚ましのおかげ頂いて有り難いと言う事。言うなら今日もお生かしのおかげを頂いておると言う事。そのことがですいよいよ練り出す根底にあっての練り出しでなからなければ、ただ頭で練っただけでは、間違うとおかげの頂けない方へ、言うならドライな練りだしになってしまうことがあると言う事を知っとかにゃならん。「信心もこの位で良かじゃろう」くらいなふうな思い方ではなくて、限りないおかげを頂いていくために、ね。その辺のところを頂かにゃならない。
これも昨日研修の時に、皆さん聞いたことでしたけれども、泉尾の先生のお話に、こう言う様な事に、こういうふうに答えておられるところがございます。これは「どのような人生生活が、お互いにとって真の理想なのでしょうか。そのためにはどんな生き方をすれば良いのでしょうか」と。それに答えてこう言っておられます。「人間生活の真の理想の生活、これは難しいですね。ちょっと表現がきれい過ぎて答えることに困りますが、理想の生活というと、人それぞれの意見があり。
皆違うと思いますが、端的に申しまして、明るさ豊かさ、希望の持てる勇みの生活と、このように申したい。」と、返事をしておられますね。分からんでしょう。皆さんこの位のこつなら、信心の無か者でん言いきるごたる感じがするでしょうがね。信心の本当人間の幸せな生き方、理想な生き方というのは、どう言う事が理想的かと。それは美しごとになって、ちょっと申しにくいけれども、申しにくいと言う事は、説明しにくいけれども、と言う事でしょう。
けれども明るさ豊かさ、希望の持てる勇みの生活。とこう言っておられます。そん位なこつなら信心のなかったって、わざわざ金光さんの先生に伺わんでん。そうどころではありません、それが理想じゃろうばんってん、そんなわけにはいかんと、言うてしまうでしょうね。明るさ豊かさ希望の持てる、と言っておられる。しかも勇みの生活。勇みの生活というのが昨日の御理解に出てくるわけですね。
昨日私が英語で「こん位ばっかりのこつば頂いた」ち(笑い)、昨日はこん位ばっかりち言うもんですから。そりばってん私の感じはこん位じゃったですもん。そりけんそれは「フレッシュ」。いやそげん短こうはなかった、こん位じゃったと言うけん、皆大笑いするんですけれどもね、確かにこん位じゃった。昨日は英語の先生も見えとったですから、聞いたですけれども、そうにゃいろいろ並べられたけれども、私の頂いたのとは違う。けれども、一番ピッタリしとるのは、この「勇み」と言う事です。
私はこの泉尾の先生が言われる「勇みの信心」と言う事は、私もまだ本当は分かりません。けれどもこん位のこつならば金光様の先生じゃなかったっちゃ、普通ん者でん言えるたい。「生活の理想と言やあ、明るく豊かにしかも、いつも希望を失わない生き方が良かこつあ分かっとる。そんなわけにはいかんところに難しさがあるたい。」と言う事ですけれども、先生の場合はこういうおかげを事実頂いておられるその過去の信心というものがね、言うなら勇みに勇まれてどう言う事になっておられるかというと。
今日皆さんに聞いて頂いた様な所が根本になっておるのだろうと、私は思うのです。泉尾の先生のは非常に深いから、ちょっと分からんです。信心の無い者が言う様な事を言っとられるけれどもです。そのなら豊かさはどこから生まれて来るか。希望はどこから持てるようになってくるか。明るさというものは、いよいよもってどういう心の状態になったら心が明るうなって来るか。
それこそ坂根先生じゃないけれども、神様に喜んで頂くこと間違いないと言う様な修行を願わせて頂いたら、おかげで三時半の時計のベルが鳴るまえに、それ前に起こして頂くと言う事が、もう有り難うなってきた。勇みの信心ですね。まだから坂根先生の信心の一切がそこから起こってくるわけです。先生なんかはとりわけ一年なら一年間という、年を切ってここで修行しよりますから、とにかくもう人並みじゃ出来んと言う所で、もう本当にお広前につきっきりのようにして修行します。
もう朝でも終わって、皆修行が終わって立ちましても、やっぱ自分はちゃんとここに座って、私が下がるまでは神習しとります。なら最近思い付いた事は、「こりゃあ朝の三時半のお出ましを拝まして頂く修行をも」というふうに、まあそれにかてて加えて、そういう修行を思いたった。その思いたった修行が、神様の心にピシッとかなうことであるから、神様が時計のベルが鳴る前に必ず起こして下さる。それが有り難い。その有り難いというのが根本なんですね。
朝目覚ましのおかげを頂いた、と言う事が今日もお生かしのおかげ頂いて有り難いと言う事に繋がってくるから、そこからいろいろに練り出されて来ることの信心であったら、今、言うように、「もう、これだけの信心修行させて頂いとるけんで」だけじゃなくて、「この信心に加えてもう一つ、こういう修行もさして貰おうか」と言う様な、有り難い方へ練り出して行く事が出来るんです。私共が本当に生きる元根になるもの、四十一(始終一)、いつもそれがそこから発しておるその、根本と言う事は。
今日もお生かしのおかげを頂いとる。それは頭が痛かっても腹がせきよっても、お生かしのおかげを頂いておるしるしだと言う事が根本になって、練り出しでなからなければ、本当の練り出しは出来ないと言う事を今日は聞いて頂いたね。ただ練り出すというて、自分で、言うなら机上の空論的な、ただ腕こまねいて練っただけではね。どうしたならば、おかげ頂けるじゃろうかと言う事の前にね。どうしたならば、より本当な信心が身に着くであろうか。
どういう信心したならば、より本当なことになってくるだろうかと言う事になってくる時に、おかげはもうそれに伴うて来るもの。加藤さん夫婦が、こうして熱心にお参りなさいます。毎日々々それこそ素晴らしいお知らせを頂かれます。奥さんは目が見えられない。けれども、心の目がどんどん、どんどん開けて来る。そして本当に肉眼の開ける時はいつかと言うとね、「本当にあなたの心が合楽色に一色になった時だ」というお知らせを頂いとられる。
言うならば、合楽一色と言うのは、私は大体その、非常に好みが多かったり、好き嫌いが多かったんですけれども、特に色なんかでは柿色なんかはフルフル好かん色でした。レンガ色的な色ですよね。それやらカーキ色やら、ああいう系統の色が一番嫌いでした。昔の軍服の色なんかも嫌いな色でした。だからいろんな物を求めるでも、柿色カーキ色とかというのは、もう私は求めたことはなかったんです。
ところが段々信心が頂けれるようになったらです。あれもおかげこれもおかげ。あの色も美しいなあ。私はひまわりとかカンナとか夏に咲く花がありましょう。あげな花がフルフル好きませんでした。ところが今は私はああいう花が大好きです。今はもう柿色が私は大好きになったんです。わざわざ努めて出よるとじゃない。本当に柿色の色の、柿色の色のね。それこそ陶工柿右衛門じゃないばってん、その柿の色に魅せられる。そういうものが出来て来た。
はあおかげで私にはもう、嫌いな色というものが全然無くなったと言う事になった。それだけ私の心の状態というものはね。広がりに広がる事になった。世の中の全てが一つのいろんな赤。色であのう区分されておると言う様に言いますけれども、もし私が柿色だけ好かんなら、柿色ん所だけはおかげ受けられん事になって来るのですね。所がどの色でも皆好きになるというのですから、いうならば合楽理念をもって布教すれば、黒も助かりゃあ白も助かる、黄も助かると言う様な結果が生まれて来るのです。
素晴らしいでしょう。だから嫌いなものがあっちゃいかんのです。そんためにゃ加藤さん、あんたの心の中に合楽色一色になれ、と言うて神様が。それこそカラーで頂いちゃるですね。この言うならば少なくとも、あの人は好かんとか、この人はええとか。起きて来る問題のすべてがです、「有り難いなあ。有り難いなあ。」で受けていけれる心の状態が心眼が開けて、神愛が分かり神願が分かって、有り難いとお礼が言えて、なら肉眼が開けたらどういう素晴らしい事になるだろうかと、言う事になる訳でしょうね。
そういうおかげの頂けれる練り方をしなければならないと言う事。楽になる練り方ばっかり考えとったんでは、信心はもうそれでお終いですね。とても以前は「そげなこつは出来ん」。例えば「三時半に起きるてん、絶対出来ん。」と言うたり思うたりしておったことが有り難う、自分の血に肉になって来ると言う所にです。おかげの世界が愈々広がって来るんです。和賀心からも練り出せ。そういうおかげの頂けれる、言うなら練り出し方をいよいよ求めていかねばならんと言う事ですよね。
どうぞ。